日々の雑感


                                             


 
 こちらに戻ってきて早一年半経過するが、今まで中々出来なかった自分の制作をしたり
作曲やギターなど音楽を教えたり実家の父の跡を継いで書を教えたりしている。環境が変わると人との出会いも、その趣が変化するものでそれはそれで面白い。
 ある日、山口で英語教師をしているというオーストラリアから来たR君という青年がギターを習いにやってきた。
彼はボブ・ディランやルー・リードが好きらしい。自分で曲を書いてギターを弾いているのだけど、コードの知識があまり無く発展させるのはどうしたら良いのか習いたいとのこと。
「そうか、ディランなんかが好きなんだね。ディランの曲、何か弾ける?」と聞くと全然弾けないという。
「それなら今自分で作っている曲をちょっと聴かせてよ」というと何曲か弾いてくれた。

 驚いたことにディランの曲など全く弾けないにもかかわらず、彼の音楽はきちんと構成されカントリー風な感じの音楽の語法にしっかりと成っていた。ビートなどのタイム感も中々良い。
僕はこれを見た時、改めて自分たちのやっているポピュラー音楽は彼らの【言語】なのだと感心した次第だった。
音楽やギターを習いに来る大半の日本人生徒は自分の好きなアーティストのコピーに熱中するが、勉強や修得の過程に於いて、それは大切な事であるとは言えるけれど、ここにはほとんど【民族性】の様なものさえ感じてちょっと寒くもありつつなんだか可笑しい。

 古典音楽と違い、ポピュラー音楽とは既成の音楽の再現性にあるのではなく創造性にその意味がある音楽である。音楽をまるで自分の言葉として操りそして自らを語ることができるかどうか、そこに意味があるはずである。
R君は既にオーストラリアに帰ってしまったが、今度はドイツに暫く滞在する予定らしい。「ドイツかぁ、いいなぁ。ベルリンなんかはテクノのパーティーとかヨーロッパ中の若いアーティスト達が集まっていてホットなシーンらしいよ。しかし君はまるでコンテンポラリー(現代的な)ヒッピーだね。」と言うと彼は「Oh,Yes!」と言って笑っていた。今ではたまに彼のデザインしたアート作品や僕の書道アート作品を画像でメール交換し鑑賞しあったりしている。

 彼が僕のところに来たのはニューヨークから来た女性Dさんの紹介だった。
彼女はギターではなく書を習いに僕のところにやって来たのだが、彼女に言わせるとニューヨーク市全体が世界で一番ホットな美術館であるとのこと。最近は日本ブームのせいか居酒屋などもたくさんあるらしい。そういえば書などの漢字を使ったデザインのTシャツなど、もう何年も前から流行している。般若心経が書いてあるTシャツなど中々かっこいい。

 しかし英語で書を教えるのはこれが一苦労で『右払い』ってどういうんだろう?などとお互い翻訳ソフトを片手に、しばしば考えながら説明したりしたのも面白い経験だった。
こうしてみると山口もなんだか知らない間に国際化しているらしい。
 
    

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 最近の僕は独りこもって黙々と制作をすることが多い。
この数年のコンピューターをめぐる制作環境は激変し、レコーディング・スタジオに入らなくてもある程度はそれと同等な作業ができるのである。
 しかしデジタル・データというのは恐ろしいもので生と機械が溶け合ってきてどちらが生か機械化か段々分からなくなってくるものである。我々が日常テレビやラジオで耳にする最近の音楽のほとんどは【合成された音】である。
ぼんやりと聞いていて、これはギターだろうヴァイオリンだろうと思っていると実はシンセサイザーやサンプラーによって合成された音だったりする。一度データ化された音はほとんど化かし合いの世界の様である。
こんな事ばかりしているとと言葉を喋るような自然な音楽のコミュニケーションから離れてくる様にも思ってしまう。

 ジャズやロックの音楽の習得はどこか言葉の習得に似ている。文法に値する音楽の構造を覚え単語に値するフレーズを覚える。難しい語法が必ずしも必要な訳ではない。簡単な言葉で【深いこと】を言ってのけることも出来る。

 その究極はただ一言で全てを語れる事ではないだろうか?

【ただひとつの音】で全てを語れるとしたらどんなに素晴らしいだろう。それが難しければ難しいほど、哀しいほどに音楽は複雑化する。
 エスニック音楽などに見られる原始的で単純な音楽構造は複雑化する必然がそこに存在しないからである。僕はそのような単純さにひどく郷愁や憧れを感じることがある。
昔の人は皆偉かったなどとは思わないけれど、音楽を複雑にしてしまう社会の必然に、僕はなにか物哀しさを感じる。



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