漢字を眺める



 書に於いて目指すもの、一般にそれは東洋の表現スタイルとしての書ですが、
私達の日常生活にはすで西洋が全面的に浸潤、混濁しており、その様な生活の様態に合う、自然とそういうところから生まれる文字表現に私は現在興味を持っています。
そして絵画的、とは言えてもあくまで文字を素材としたところにはこだわりらしきものも私にはあります。



 古代の中国人、つまり我々が現在使用している漢字文化を生み出した人達は、
文字そのものを神聖なものととらえ、主に当時は日常で文字を読み書きというよりも、
原始国家に於いて政治的手法であった、儀式としての占い、託宣等の宗教儀礼などに神の意志を表す為の道具
として漢字を使用していた様です。
 これは亀の甲羅、骨などに書き付けて儀式の吉凶を示した事から甲骨文字と呼びます。
漢字という文字は人間同士のコミュニケ−ション以前に神とのコミュニケーションの道具だったとも考えられるわけです。
この様な生成過程から見ても漢字という文字文化自体の成り立ちは非常に霊的とも言えるものです。
 私達の現在使用する文字はそこから改変され簡略化されていますが、原初に於いては古代人のその様な素朴な精神生活から生まれたものです。それらの最も古い時代の漢字は自然万物を図形化、象形化したものの様です。
それを実用上、便利が良いように簡略化したのが現在私達が使用している漢字やかなです。
 

 また古代の中国人は紙に書いた文字にさえ、そこには何か神聖さを感じる感性を持ち、
決してポイッとゴミにしたりはせず、必ず火に焼べてその文字達を天にお返しする意を表していたという話もあります。
無論我々現代人は普通そんな事を考えもしませんし、その様な感性はとうの昔に何処かへ置き去りにしてきました。
漢字の簡略化、体系化とは即ち社会システムの合理化の事でもあります。
 合理化して、そして忘れてしまったもの、それは物事の本来の、または原初の意味です。
そしてそれは歴史的な日本の文化全般の問題でもあります。外のもの、他のもの、という外来の文物をことさらありがたがって形をなぞる行為はまさのこの<本来の意味>から遠ざかることに他なりません。 
 現代に生活する私達が直面するこの世界の膨大な意味の無さ、虚無、これらは逆に合理化して忘れ去ったものの存在意義を教えてくれます。そんな時、人間の心の深い部分にひっそりと備わる非合理な何かが、無意味と虚無を意味と本質に回復すべく働いている様にも私は感じるのです。


しかし合理が世界に無意味を与え、非合理が世界に意味を与える、とは何という皮肉な事でしょう‥。


 文字に限らず原始の形といったものは現代の私達が見たらおそらくそれは何処か奇怪な姿をしている様に思います。
しかしその禍々しさには何処か懐かしい風合いも感じます。文献に見る甲骨文字を眺める時、私はこの懐かしさとその様態の奇怪さ、そしてそれを生み出した古代の人達の精神生活、これらの世界に何処か憧れを持ってしまいます。
 これは懐古趣味なのか?と自分に問いますが、ノスタルジーとはまた違う感覚です。懐古、というには永い時間のスパンを遥か超えると、逆に未来の時間がロマンスの様に私の頭にフィードバックする様な気がするのです。そしてそれらの原初の意味は私の心を和ませ、普段は忘れている人類の時間の糸を私の心の内に綺麗に織ってくれます。


 現代という時代、この急激な変化の時代‥。音楽などをやっているとこの最前線に否応無しに向き合いますが(きっと私はそれも好きなのでしょう‥)これらにいささか疲れた者には、この様なロマンスを感じさせる永いタイム感覚へのイメージの喚起は、とても癒される気がします。
 しかし真に素晴らしいモノはこういう時間の風雪に晒されてもなんら影響を受けないものです。
むしろ形の変化を能動的に受け入れる事でフレキシブルな感覚をいつも貯えている様に思います。ある中国の書家が「変化を拒む書法はやがて衰える」という主旨の事を言っているのを聞いた事がありますが、これは真を得ている言葉ではないでしょうか。
 一切の形態は変化して留まる事が無い…、だからそれを拒まずに受け入れよ、そこに常住なるものはあるのだ、と…。この言葉はこう言っている様な気がします。


これは変化の時代に生きる私達の人生の処し方、方法論とも言えるのではないでしょうか。






BACK