現代の書のあり方について








 ここまでのエッセイで書いた様に私は書に限らず芸術品に触れる時最も重視するのは、表現の<表面>ではなくその表現をそうたらしめている心の力学、つまりその表現の<裏側>にあるものです。ここを注視し、評価します。何をしているか、ではなくて何故そうしているのか、が重要だという事です。 
 この観点から古今の書作品を見た時、私が求める様な精神性の強い書表現、というのは非常に少ないように思います。
 絵や音楽、というのはある人にとっては一生それを自分で行為する必要の無いものです。しかし、文字を書く、というのはたいていの人は誰でも一生この行為と付き合います。つまり実用の行為である、という事です。この実用性の故に書表現は純粋な美術、芸術表現と何処かずれてしまっている様に思います。

 概して書家の書、よりも画家や芸術家の書く書のほうに良品が多く、僧侶の書く墨跡にも良いものが多い様に感じます。
 そのような精神性の高い書という筋で眺めるに、一番有名なあたりは良寛の書でしょうか。彼の書における思想とはプロである事やその技術さえも敢然と否定しているところにその特徴があり、いわば俗事全般の価値自体を投げ出した価値を自分の生き方を賭けて貫いているところ、そしてその意念が彼の筆跡に滲み出ているところにその魅力があります。

 私はこれを好きではあるのですが、芸術、という意味での厳しさを回避しているところがあるのと、その生き方自体にも私は手放しでこれを良し、とはどうも言いづらいところがあります。

 私はあの良寛的な生き方、世を突き放した生き方、もっと言うといわばヒマラヤの山の中にでも住んでる様な聖人の様な生き方、といったものにひどく憧れがある反面、(ここが重要なところですが)私はそこに世界そのものを回避する様な類いの<弱さ>も見るのです。ですから山に居て超絶とするよりはこの世界の直中に居て何ものかと戦い、その過程において何かを学び悟る様な生き方を自分は旨としています。しかし世俗にどっぷり漬かり切った身にあの生き方、あの書はやけに優雅に見え、ほっとさせられる、癒される、というのもこれも事実ですね。

 さて、では書家においてこの様な精神性を見せた人は居るのでしょうか。
 中国、日本、の古典から近代まで眺めてやはり、書体自体のスノビズムから完全に脱しているものは少ないですが、書表現において意識して精神だけを抽出しようとしたおそらく初めての人、これは井上有一氏の書ではないかと思います。
 彼は良寛とは違う意味でプロの書家ではなく、学校の教師をして生活していたそうですが、この世と対峙している精神を持ってしてその精神性だけを露骨に顕わそうとした姿勢…、その存在自体が書の世界では初めてのタイプの書人ではないかと思うのです。 
 古今から書家とは書体における職人的な技術者の様なところがあり、それは活字やワープロどころか印刷技術さえ無い時代の必然からくるものでした。しかしこの時代、今やその必要はゼロに等しいといえます。今の時代の方が純粋に手で文字を書き、それを持って己の表現とする、という事に近付くのに、そこに至る些末なスノビズムを必要としない時代は無いのではないでしょうか。私はこれはむしろ歓迎すべき事だと考えます。

 そしてもう一人、井上氏の手先の技巧を度外視して魂をぶつける様な無骨な表現とまったく逆に<書のスノビズム>を粋、といえる程に徹底した書人、青山杉雨氏。その書に対するスノビズムが芸術と呼べる域まで達している希有な書人であると思います。
 書を志す、と云うならばむしろ青山氏の様なやり方こそ本道、正道ではないか、とも思います。
まずあの華麗なテクニックに舌を巻きますし、その粋さに感歎としてしまいますが、スノビズムもあそこまで行くと高貴でさえあります。


 近代では前衛の波が絵画や現代美術、現代思想へも押し寄せ書の世界でも果敢にその実験が成されてきました。
 私は音楽に於いてこの前衛や抽象をことさらに重視しているのですが、書に於いての前衛、これは紙と墨というミニマムな表現スタイルなのでどうやっても線の質感へのこだわりに終止せざるおえないところがある様です。
 音楽で言うと一発のサウンドにのみその意味を求める姿勢と合い通じるものがあります。音楽の世界では近年、音響というスタイルがもっとも先鋭に位置していますがそれは、この10年くらいに発達したサンプリング技術等、音色を無限大に生成できるテクノロジーの発達から必然的に生まれたスタイルです。

 私は音楽と違い書は時代と逆行しても良い、というより逆行すればするほど良いとも感じています。
 音楽で言うとひと頃エレクトリック・ギターは<よりギターらしくない音>を求めた時代がありました。しかし昨今ではその意味を失いよりアナログなギターらしい音が求められて久しい、という様に、墨を擦り、筆を握る行為の意味にあるものとはデジタル全盛の時代の中でむしろ優雅で、高貴な、データ化出来ないヒューマンなアナログ感覚の表出にあると思うからです。
 筆で書いた様な書体がPCなどで合成出来ても、下手な字でも自身の手で気持ちを込めて書かれた書のアナログの味わいのある質感には到底かなわないのです。 魂を喜ばせ、感動させる道具としてのデジタルは、書においては今一つ足りません。しかしCGなどとの融合には今後面白い表現もあり得るかもしれませんね。ここには興味も非常に持っています。 
 しかしこれらの点でさらに重要なのことは手法が時代と逆行しても古いもののレプリカをつくる事には意味があまり無いという事です。あくまで今論じているのは<手法>の問題で、<表現>それ自体はむしろ、今、この時間、この時代、を取り出す様なもので無くてはならぬ、と感じます。現代の書壇にこの意識は果たしてあるのでしょうか?書に限らず古典的表現、伝統芸能などにはいつもこのジレンマがつきまとう様です。


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